瞑想への誘い Virgo Shaka
このページを開いて私の“有難い”話を読もうと思った諸君。
君達の仏教への興味、また興味を持とうというその心を私は高く評価しよう。
しかし、せっかくのところ悪いが残念ながらこのシャカ何も語る事は無い。
以上だ。
・・・むっ何だね君は?マガジンの編集長?いったいその編集長とやらがこの私に何の用かね。私はこれから瞑想をするのだ。まさかそれを邪魔すると言うのでは・・・あるまいな。
何?上の文章では短か過ぎる?・・・君はそう言うが、仏教とはそういう物だ。教えるものではなく悟るもの。このシャカにはどうする事も出来ん。そもそもこのコラムの企画自体に無理があるのだ。分かるかね?
ふう・・・今度は何だ?このままでは首が飛ぶ?良いではないか。それが君の運命だったのだ。実力が無い者は切られる、特別な事ではあるまい。うむ・・・しかしこのシャカ、頭が悪く救いようのない人間に手を差し伸べるくらいの慈悲はある。君のその亡者のような顔に免じて今回は引き受けてやらんこともない。
それで何を説法すれば良いのかね?何?平和を護る聖闘士なのだから今の殺伐とした世界を仏教的立場からコメントしろ・・・だと?君はこの私に指図する気かね?まあ、良いだろう。このままでは私の貴重な時間が失われるだけだ。そのテーマで説法をしてやろう。読者の諸君も心して読みたまえ。
まず「仏教的立場から世界情勢を察する」という事だが・・・そもそも仏教世界において「立場」という物はない。「キリスト教」や「イスラム教」いわゆる西洋宗教というものには「善悪観念」つまり白か黒か(君は今、サガを思い浮かべただろう?)をハッキリ分ける事やそれについて説明付けする事が重要であるのだが、仏教にはそのようなものは無い。そういう事から今の世界情勢・・・テロや戦争など平和という言葉が忘れ去られたかのような混沌とした世界は誠に残念ではあるが「なるべくしてなった」「こうなる運命だった」としか言いようが無いのだ。
君には分かるかね?冷たいような言い方に聞こえるかもしれないが、仏教において事に善悪というものはおおまかな物でしか無く、全てが因縁においてなされると考えるのだ。悪くなったのは悪い因縁があったからであり、反対に良くなれば良い因縁があったからなのだ。
世界情勢を察するだけに限らず、説明というものには必ず「良い点」と「悪い点」を挙げなければならない事は諸君も知っての通りだ。だが、仏教には前にもあるようにそもそも善悪に関しては大きな意味しか無く、細かな意味は無い。何しろ人によって「善い事」「悪い事」は異なるものだからな・・・。
従って現代の世が「善いもの」であれ「悪いもの」であれ、こうなったのは因縁のなせる結果であり、こうなる運命だったのだ。「善い」とか「悪い」とか「理念に沿う」とか「沿わない」とかそういう問題では無い。
“No reasons.” この一言に尽きる。
そして・・・このシャカの本音をハッキリ言わせてもらうと「仏教的立場から今の世界情勢を察する」という考え方自体が西洋的、もしくは西洋宗教的考え方なのだ。企画を立てるくらいならそれくらいの知識があってもらわねば迷惑だ。分かるかね?そこの編集長とやら。
これは基本的な事なのだが、仏教には「仏教世界」や「立場」などの言葉はあれども、そのような観念は無い。「善悪」や「勝ち負け」そして「優劣」も無い。だから何かについて仏教的な考えで説明するといっても表面上のある程度なら可能かもしれないが評論する事は出来ない。いや、そもそも評論などしないのだ。
西洋宗教には必ず善悪に基準があり、それに沿っているか沿っていないかを論じれば何かしらの説明が出来るのであろうが・・・仏教にはそういう観念すら無い。
「そうなるべくしてそうなった」という事だ。
全てが「空(くう)」。結果は「因縁」。
これが仏教の考え方だ。
これ以上の事はもう言葉では表現する事は出来ない。
もしそれでも知りたいというのなら、瞑想をする事だ。心を安定させ仏の叡智に近づく事が出来ればもしかすると何かを掴めるかもしれないが・・・。しかし、このシャカとは違って一般人の君達が仏の叡智に近づくのは気の遠くなるような時間が必要だろう。まあ、せいぜい頑張りたまえ。
では私はこれから瞑想に入る。
邪魔をするつもりなら、冥土への旅支度を済ませてからにしたまえ。このシャカが自分の貴重な時間を割いて説法をしてやったのだ。何度も読み返して少しは考えてみるように。悟る事は出来ずとも何かを見つける事くらいは出来るかもしれん。
有ると思えば有り、無いと思えば無い。
君の心一つで世界は違ってくる。それは極楽であろうと地獄であろうとまた同じ。
そういう事だ。
Written by Licht
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